「オメラスの神庭~壱ノ噺、榴白~」SS③


“何も持たない青年の話” 後編


※注意※
・「オメラスの神庭~壱ノ噺、榴白~」における、ネタバレを含む内容となっております。
・「榴白の過去話」です。一部、残酷・暴力表現を想起させる内容が含まれます。





ある時――何がきっかけだったのかは、分かりませんが――夢を見ました。

長い間、眠りについても夢を見るようなことは今まで一度もありませんでした。
その刹那的な夢だけが、現実から逃れる唯一の手段でした。


不思議な夢でした。

風が肌を撫でるような感触。地面を踏みしめる感覚。微かに漂う木の香り……夢の中だと言うのに、とてもリアルなものでした。
まるで、本当にその場所に立っているかのように。

それは此処――薄汚れた狭い小屋―ではない、どこか。きっと遥か遠い地。

朱塗りの門は、思わずため息をついてしまうほど壮観で、その門を越えた先には美しい庭が見えました。雑草の一本も生えてなく、整然としている庭ですが、目を引くのはそこではありません。
まるで世界そのものを彩るような、視界を埋め尽くすほどの、紅葉。中心にある池はまるで鏡のようで、鮮烈な赤を映し出していました。
目の前にそびえ立つ立派なお屋敷は、今まで見たこともないものでした。建物は磨き上げられ、自ら光り輝いているようにも見えます。

どこか夢見心地で、興味の赴くまま歩を進めていく内に。
……ああ、もしかしたら、ここが“極楽浄土”と呼ばれる場所なのかもしれない……と、ぼんやり思いました。
いつだったか……戦で死にゆく兵が“行ってみたい”と呟いていた光景が、頭を過ぎります。

こんなに美しい場所なのに、人の気配が全くなく、とても寂しく感じました。
何もない、ただの空間。ただの、空箱。……それもそのはずです。
これは夢なのだから。夢という空想に登場人物は自分しかいないのは、当然のことでした。

建物に近付いてみようと、真っ赤に染まった庭を少し歩いたところで、ピタリと足を止めました。
縁側で佇む人がいたからです。

その先客は、女の人でした。
年はよく分かりません。もしかしたら自分より年上なのかもしれませんが、あまり女の人を見たことがない自分には、判断がつきませんでした。何よりも特徴的だったのは、初めて見る――それは誰も想像し得ないような――とても珍しい着物でした。

女の人は、こちらに気付くと、柔らかく微笑みました。

その時が初めて人と目が合った。今まで目が合うことなど、誰ともありませんでした。さも、存在しないかのように。
ですから、自分という存在を認識して、その女の人が笑ったのだと想うと、胸が締め付けられる想いがした。

“あっ……――――っ……う……”

反射的に口を開きましたが、言葉にはなりませんでした。言葉を知らない人間に、言葉を話すことは出来ません。
無知で、無力な存在でしかなかったのです。

夢はそこで唐突に終わります。


目が覚めれば、鬱蒼とし、臭気が漂う真っ黒な小屋の中でした。それはいつものことです。長い間送ってきた、変わらぬ毎日でした。
――そう、これが現実。こっちが現実。
しかしあの不思議な夢を見たことで、少し前には無かった思考が生まれます。

――あの場所は何なのか。
――夢の最後で会った女の人は誰なのか。

たかが夢。ただの夢だと分かっていても、それは無為な時間を十二分に満たすものでした。




夢の出来事に思いを馳せるだけで、不思議と時間は進みました。戸の隙間から光が差し込んだかと思えば、いつの間にか消え……そしてまた、いつの間にか光が差し込むのです。ほとんどの時間を眠って過ごしていたようなものでしたが、眠る時間は更に増えました。

夢は見る時もあれば、見ない時もありました。
そして、稀にあの場所の夢を見るようになりました。




その人は殴らないし、罵倒することもありません。傍にいるだけで、心の奥底からじんわりと温まっていくようでした。
隣に座り、ぼんやりと庭を眺めているだけで、多くは語りませんでした。
……私は喋れなかったのです。
もう何年もの間、人と会話をすることはなく、言葉を知らなかったものですから。

その女の人に――はじめて、自ら――声をかけようとして……
言葉が出ないことに絶望しました。無学で、無知な自分を恨みました。
そんな私を、その女の人は嘲笑うことなく、ただ、優しく見つめてるだけでした。


重い瞼を開けば、映るのは一面の黒さです。ずっと、何も感じなかった闇です。夢の甘やかな余韻が心から全身に染みわたるのと同時に、はじめて、苦しさを自覚しました。
あんなに望んでいた死を、少し、ほんの少しだけ、嫌だと思うようになりました。

――あの人は、この国の人ではない。
――極楽浄土にいつのだから、もしかしたら神様かもしれない。

そんな遠くの存在。それでも。
もっと傍にいたい。もっと触れてみたい。……話をしてみたい。

でもそれは叶わぬ夢でした。夢は夢でしかなく、あれはきっと自分自身の妄想の産物なのだろうと、頭のどこか――片隅――で自覚していたのです。しかし、そうだと分かっていても、日に日に思いは募ってゆきます。




いつからか、夢から覚めると涙していることに気付きます。
どうすればいいのだろうか、と問い質し、悩む反面、
どうすることも出来ない、という結論に苦しみました。

苦しい、苦しい、苦しい、苦しい……
中途半端に芽生えた感情、それは物理的な痛みではありません。肉体的な痛みであれば、耐えることが出来ます。今までずっと耐えてきたのですから。蹴られ、踏みつけられ、木の棒や耕具で殴られようとも。肉体的な損傷は、時間が経てば癒えます。しかし、この痛みは治らない。耐えられても、治す方法は知りません。
……だからこそ、余計に苦しかった。

やはり、一刻でも早く、水神様のもとへ行くしかないのだと思いました。
きっとそこは極楽浄土で、自分が望んだ世界であるはずだ、と信じることにしました。
死んだら、もしかしたら。
もしかしたら、あの場所へと行けるかもしれない……そう願うことを心の拠り所にするしかなかったのです。

死を渇望し、生への未練を残し、そしてまた望んだのは死でした。しかし諦念から望んだ死と、辿り着いた答えとしての死は全くの別物です。後者は、その行き着く先に希望を抱いた死でもありました。




天候が崩れてから、終わりを迎えるまでは、本当に一瞬の出来事でした。

それまでほとんど誰も近づかなかった納屋に、数人の男と、見たことのない女が一人やってきました。
手足を拘束していた縄を、雑に引き摺られながら、ある家へと連れて来られました。
男は、衣服――と呼べるようなものではありませんでしたが――を剥ぐと、井戸から汲み出した、桶いっぱいの冷水を頭からかぶせました。
そして男の一人が、私の体を麻布で擦り、洗い出したのです。さぞ嫌そうに顔をしかめながら。

納屋から、今度はとある家の勝手口のような場所に繋がれました。しかし出される食事は少しだけ量が多くなり、回数も増えました。
骨と皮で出来ていた身体に、ようやく肉がつきました。
それが意味することを、私はもちろん知っていました。

“水神様に、お前を捧げるときが来たんだ”

それが更なる不幸の前兆だとは気付かず……私は愚かにも喜んだのです。




ある日――恐らく水神様に身を捧げる間近。

納屋から連れ出された日、複数の男達と共にいた女が私の前にやってきました。
その女は、歪んだ口を三日月にして、

“――――とても美味しそうな男だ”

と、そう言ってにんまりと嗤ったのです。

女が目の前に現れてからの記憶は、それ以上に酷く曖昧です。
複数の男に羽交い絞めにされた後、女が私の着物を肌蹴させ、肌に無遠慮に触れてきた時、全身がざわつくような嫌悪感を覚えました。
何もわからない。が、自分はこれから酷いことをされる、ということだけははっきりと分かりました。

急所を掴まれ、そして擦られれば、言葉にならない声が漏れた。

生贄になる娘は未通女というのが通説だが、婿となれば別に初物でなくても問題なかろう、女はそう言っていました。

女はそのまま、体に乗り上げ、そして……

女が発する声は、今まで聞いたこともない声でした。それが自分にとっては、ただ、ただ恐ろしかった。
その上、自分の肉体の一部が赤の他人と繋がっている。その現実もまた、おぞましいことでした。
拒絶をはらんだ呻き声をあげるも、聞き入れてくれるはずはなく、その行為は明け方近くまで続きました。

そして、ああ、穢されたのだと、意識が朦朧とする中、ぼんやりと自覚しました。

勝手口は酷い有様でした。戦場に転がる死体のように、男と女の体が折り重なって、倒れていました。ピクリとも動きません。

その隙に、家から一目散に逃げ出しました。
幸か不幸か、逃げ出すことが出来たのです。

女にされた行為が――背徳的な行為だという事以外に――どんな意味を持つのか、わかりませんでした。最初に感じたのは苦痛のみでしたが、行為を続けるうちに、段々と、快楽が全身に染みわたっていきました。
女だけでなく、男も興奮した声をあげていましたが、自分もまた、男と同じような声を発していたのです。
その時、自分が自分でない何かに変わってしまった気がしました。

男と女の笑い声、嘲笑う声が頭の中で何度も何度も再生されます。
走っても走っても、それはこびり付いて離れません。追い立て、淫乱だと罵り、責め立ててくる。

生贄として、万全な状態で身を捧げるために、身体に少し肉がついたのは幸いでした。
何とか走ることが出来たのですから。石を踏みつけ、足から血が出ようと、走り続けました。

もう一つだけ、自覚したことがあります。
それは、夢を見る資格を失ったことです。

おぞましい行為をし、穢れた自分は、傍にいる資格を失いました。
あの人を想うことすらも、赦されない。
あの男や女と同じ様に、穢れた体になってしまったのです。聖人君子のような人でしたが、今度ばかりは同じように軽蔑されてしまうことでしょう。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

あの女は、男であれば問題ないという認識を持っていたのでしょうが、恐らく水神様の生贄としての資格をも失ってしまった。
神様は美しく、清らかなものを好む。したがって、汚れた体に価値はなく、不必要な存在だ。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。水神様………ごめんなさい。
そして、一時の夢で出会い、恋焦がれて、想いを寄せたあの人にも。

赦してください、赦してください、赦してください。
赦されるはずもないのに、必死に乞いました。




鬱蒼とした森を走り続け、辿り着いた、かの沼。
足は木の枝や石で擦り切れ、血も滲んでいたが、それどころではありませんでした。遠くで男の怒鳴り声が聞こえました。

――ああ、もう、追い付かれてしまう。
――もっと、もっと遠くに、逃げなければ。

迷いはありませんでした。

そのまま、沼に身を投げました。




人間の死というものに、果たして「続き」は存在するのでしょうか?

夢現で、どこまでが「生」で、どこからが「死」だったのかはわかりません。
体が水の中に沈んでいく中で――水というよりは泥沼ですが――、水神様に触れた気がしました。何かが、己の身に入り込むような、何かと混ざるような、言い表すことの出来ない感覚でした。
死を迎えるのに、苦しさはありませんでした。




そして、次に気が付いた時には、ここにいました。

赤色の葉が降り注ぎ、視界を埋め尽くすほどの赤に囲まれた地。
――まるで極楽浄土のような、その場所に――

ここには、寒さも暑さもありません。そして雨風を凌げる、丈夫な建物があります。
敷地内ではたくさんの作物が実ります。――ある条件はありますが――飢えもありません。
世界の楽園そのもので、自分が夢想し、望んだ場所。そして、あの人に出会った特別な場所。

けれども、大事な、何かが足りない。

――此処に、あの人はいなかったのです。


神様のお世話をする“御先”という役割を与えられました。――曰く、それは自分たちの贖罪なのだと言う。
けれども、抵抗はありませんでした。役目が、存在する理由があるなら、なんだって良かったのです。

この聖域の主である神様は、まだ来ない。
いつ来るかもわからないし、来ないかもしれないという。
御先は何人もいて、賑やかではありましたが、満たされはしなかった。

何も知らなかった図体が大きいだけの、幼子のような自分。
“その時”を待ちわびながら、言葉を覚え、知識を得て、そして“人間”を知りました。

人間を知って……そうして初めて、人間から遠ざかったことに、気付きました。
私はかつて人間であったのに、人間を知らなかったのです。

他の御先から神様の代わり――神代様――を教えて頂きました。神様がどんな方かは誰も知らない。
けれども、女神様であること、そして遠い遠い異国からやってくるのだということは、何故だか知っているようでした。
だからこそ、余計に知識を深めました。
その中に、少しでもあなた様の世界や、あなた様自身のことに繋がるものがあればいいと願って。

私は、神代様はきっと夢であったあの女の人だと――あなただと――信じていました。もちろん、根拠はありませんでしたが、どこかで確信めいたものがありました。
そして、人間を知るうちに気付いたのです。――自分があの人に抱く、感情に。
それを知り、認めてからは、その日が一層待ち遠しくなりました。


身なりこそは昔と大分変わってしまったけれど、今度はちゃんと話せるだろうか。
務めをしっかりと果たせるだろうか。
……嫌われてしまわないだろうか。
想えば想う程、心臓が締め付けられるような苦しさに襲われました。




夢と同じように、中庭を見渡せる縁側に座り、一人、庭を眺めていた時、ふと風が、頬を撫でるように吹いたのです。
甘く、どこか懐かしいような夢の一幕が頭を過ぎり、そして、あの人の手の温かさがじんわりと蘇りました。

――大丈夫、きっと受け入れてくれるはずだ。
――いつだって、あなたは優しかった。それは決して、まやかしではないはずだ。




長い時間が過ぎました。具体的に、どのくらいの時間が経ったのかはわかりません。
ですが、その時間は苦痛だけではありませんでした。




地を、葉を踏みしめる音が響いた時。
霞がかった世界が、明瞭に、晴れ渡っていく――。

ここから、この瞬間から、ようやく自分自身の“生”が始まるのだと思いました。


“お待ちしておりました。もう随分と長い間……ずっとずっと待っていたのですよ”


ずっと逢いたかった、愛しい人。




written by 義ヰ(Duosides)


ここまでお付き合いくださり、ありがとう御座います!

1年越しとなってしまいましたが、ようやく榴白の話を公開出来ました。ほぼ回想しかも暗くて不快感のある話、ということもあって、これを読んでも面白くとも何ともないんじゃないだろうか……と悶々としておりましたら、結果として1年が経ってしまいました。申し訳ない限りです……少しでも皆様の心に留まれば幸いです。
榴白の設定は初期から固めておりましたので、設定や背景を十二分に活かしたキャラクターデザインをわめき氏がして下さいました。
それから特に最後のトラックは、スキマチェリー様が設定を踏まえた上で丁寧に演じて下さいました。この場で大変恐縮ですが、心より厚く御礼申し上げます。

榴白に関しては、これでようやく心置きなく幸せな話が書けます(笑)
「オメラスの神庭」シリーズはまだ暫く続く予定ですので、引き続き2年目もどうぞ宜しくお願い致します!