「オメラスの神庭~肆ノ噺、玄柚~」SS

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※「オメラスの神庭~肆ノ噺、玄柚~」の後日談になります。


 ……笑い声が聞こえた。

 それは嘲りを含んだ声ではなく、柔らかく優しかった。そうやって笑いかけてくれる相手にはひとりしか心当たりがない。

 ゆっくりと目を開け、俺は口許を緩めた。
 予想に違わず、そこには神代様がいた。羽織っただけの着物の胸元を片手でぎゅっと握ったまま、こちらにすこし身を乗り出している。それなのに目が合わないのは、神代様の視線があるものに注がれているからだ。
 着物の裾から覗く白い足に、どくんと心臓が脈打つ。湧き上がる劣情を押し留めようとも一度、瞼を閉じた。ついさっき身体を重ねたばかりだろうと自分自身を叱咤する。

 目を閉じて、深く呼吸をして。
 どうにか身体の熱を収めたところで再び目を開き、それからようやく口を開く。

「……神代様はそれが気に入ったらしいな」

 えっ、と小さな声を上げて神代様がこちらを見る。目が合うと、気恥ずかしそうな顔をしてえっと、それは、その……と要領を得ない言葉を繰り返した。

 すべての御先は獣性を宿している。身体のどの部分に獣の特性が表れるかは個々によって異なるが、獣の耳を持っているのは俺だけではない。ましてや犬などたいして珍しい動物でもないだろうに。
 そんなことを思いながら身体を起こす。いつも通りの視線の高さになり、そっと息を吐く。神代様に見下ろされるという状況に不慣れで、先程の姿勢はどうにも落ち着かなかったのだ。
 俺に見つめられているせいか、神代様の顔に一層赤みが増す。目許に差していた朱色が徐々に広がって、あっという間に真っ赤になってしまった。
 羞恥を露わにするその姿に、何か恥ずかしがるようなことがあっただろうかと不思議に思いつつ、会話を続けた。

「触らなくてよかったのか?」

 何とはなしに投げかけた言葉に、神代様が目を瞬かせる。信じられない言葉を聞いた、そんな顔だ。
 俺の表情を窺うように神代様がじっとこちらを見上げてくる。
 そして――触ってもいいの? と遠慮がちに尋ねられた。

「……そのつもりで見ているのかと思ったが」

 違うのか、と言外に問えば、そうだけど……と神代様が言い淀む。触りたいけど触れない。どうやら神代様の中で俺には想像もつかない葛藤があるらしい。
 答えを急かすのもどうかと思い、俺は静かに次の言葉を待った。

「…………」

 ふと視界の端に赤いものがよぎり、障子のほうへ目を向ける。ほんの少し開いた障子の向こうには今日も変わらず深紅の世界が広がっていた。どれだけ時間が経とうともここは何も変わらない。恐らくこの先も、ずっと――
 微かな衣擦れの音に我に返る。俺が神代様のほうへ視線を戻したのと、彼女が口を開いたのはほぼ同時だった。
 この前、触らせてもらったのはハンカチのお礼だったから、と。

「え?」

 今日はそういうわけでもないし、触りたいけど触ったらいけないかなと思って見るだけにしていたのだと。
 神代様の葛藤の正体がわかり、嘆息が漏れた。

「あなたは真面目な人だな。触りたいのなら触ればいいだろうに」

 その言葉に神代様は大きな目を見開いた。その顔を見るのは今日、何度目だろう。ころころと変わる表情に愛しさを覚えていると、神代様の瞳に驚きとは違う感情が滲み出していることに気づく。期待。好奇心。
そんな明るい感情が溢れて、俺のほうへ押し寄せてくる。あまりにも純粋で、触ってもいいと言ったのは俺のほうなのに少しだけたじろいでしまう。

「……まあ、そうは言ってもいきなり触られると驚くから一声かけてもらえれば」

 咄嗟にそう付け加えると、神代様は大きく頷いた。
勝手には触らないと約束してから、おずおずと切り出す。触ってもいいかな、と。

「ああ」

 神代様の顔がぱっと綻ぶ。
早速、距離を詰めると俺の耳に手を伸ばした。よほど嬉しいのか、耳元で笑い声が聞こえてくる。夢うつつに聞こえた、あの柔らかな笑い声だ。

 決して可愛いだけではない獣の部分を、彼女は愛でてくれる。ありのままの俺を受け入れてくれる。それはとんでもなく幸せなことに違いない。
だからこそ、この時間が未来永劫に続けばいいと、俺は願わずにはいられないのだ。





written by 千崎郁未