「オメラスの神庭~壱ノ噺、榴白~」SS
幸せな夢の最後は、いつも決まって同じ終わり方であった。甘く、温かな場所――、愛しい人の傍から引き離された“そこ”
冷たく、暗い、水底。
それは繰り返し見る、最期の記憶。
深い深い水の、底。
ゆっくり、ゆっくりと地上は遠ざかり、身は沈んでゆく。
体温は既になくなり、凍えるほど冷たいはずの水底に沈んでいても寒さはなく、
ただ、ただ、手足の感覚だけがなくなってゆく。
聴覚や嗅覚はわからない。
視界だけはハッキリとしている。
水底から見上げる光は、なんと遠いことか。
必死に手を伸ばしても、引き上げてくれる者などいない。
助けて欲しいと懇願しても、救ってくれる者などいない。
自分の存在を、求めてくれる者などいない。
それが分かっていたから、手を伸ばすことさえ、諦めた。
諦観は、更に感覚を奪ってゆく。
“生贄”として飼養されていた自分には何もなかった。
何1つとして持っていなかった。
土地も、財産も、物品も。それこそ質量を得た物だけでない。
人として存在していく権利すら、持っていなかった。
すべてを諦めていたのに。
一瞬のことだった。
夢幻であったあなたと会った時。
ほんのわずかでも、幸せになりたいと願ってしまった。
この温かな日溜まりの中に居続けたいと……
あなたの傍に居たい、と。
ただ想うのは、たった1人の存在。
自分にとって夢幻のような……遠い存在。
その存在が何も持たない自分を選ぶわけがないというのに。
叶わぬ願いだと知りながら、ほんの一時でもいい。一瞬でも良かった。
――あなたに、触れたい、と。
けれども結末は変わらず、自分はこうして水の中に沈む運命なのだという現実を突きつけられる。
何をしても無駄、無価値、そして無意味。
ああ、始めから分かっていたことなのに。
深く、深く、沈んでゆく。
諦めるように目を閉じ、そして意識を手放した。
「………また、夢…」
目が覚めたのは、陽の明るさからではない。
繰り返し見る夢の最後、沈んでゆく感覚がふと消える瞬間、反発するように急に意識が浮上するのだ。
そしてまるで水底にいたかのように、目が、頬が、濡れていた。
「……夢で泣くなんて、私も、女々しい」
夢が終わり、目覚めるといつも涙を流していた。
それは神庭にくる前も、そして神庭に来てからも変わらず続いていた。
こんな姿、他の御先に見られでもしたら、笑われてしまうと自嘲する。
濡れた顔をぬぐうと視界が明瞭になる。
この寝床からは伏していても、神庭の中庭が良く見えた。
赤々とした木々が、風に揺られて……
真っ赤に色付いた葉が、まるで血飛沫が舞うように、絶え間なく降り注いでいる。
それは生命を感じさせる光景でもあった。
あの時とは違う――赤い世界だ。
そう、これもまたいつもの、いつもと変わらぬ光景であった。
いつまでも感傷に浸り、微睡んではいられない。
支度をしようとして、身体を起こそうとした――時。
「神、代様……」
ひとりの女性が、隣で眠っていたことに気付く。
その温もりを忘れていたわけではない。
忘れるわけがない。
ただ、つい先程まで……近くにはなかった、自分にとって唯一の存在に。
実感がなかった。無いことが現実だった。
自分にとって、都合のよい幻をみているような、今でも隣に、そして触れられる距離にいることが、
奇跡だと思うのだ。
そしてまた疑う。
まだ自分は、夢を見ているのではないか、と。
本当の自分は、まだあの暗い水底にいるのではないか、と。
よほどお疲れであったのだろうか。
神代様は深く眠っているようだった。
隣で眠っていた自分が身動ぎしても、起きる気配はない。
「無理をさせすぎてしまいましたね……」
愛してやまない存在が現実にいるのだと徐々に実感する。
すると欲深いことに、酷く安堵した。
今はまだ、私だけのもの。
「神代様、どうして……」
視界がまた歪んでゆく。
女でもないのに泣くのは女々しい、と自虐したばかりなのに、自然と涙がこぼれ、流れてゆく。
「……これだから私は、あなた様を思わずにはいられない。きっと、あなた様は、無意識なのでしょうけど……それでも……」
人ではない自身の、冷たい手に宿る、温かなぬくもり。
それは視線を落とさずとも分かる。
いつのときだって、そして何処にいても
それは求めていた“温もり”であったのだから。
まるで何かを掴むように――。
その手は、しっかりと繋がれていた。